Photographer 中川正子



わたしの写真家としての道筋に、大きなできごととして刻まれているのが、THE BOOMとの出会いです。この出会いがなかったら、わたしは違った姿勢で違った写真を撮っていたかもしれない。それは、(大げさに聞こえるかもしれないけれど)今のわたしとはまったく違う人間だったのかもしれない。それほどまでに、わたしにとって大きなことでした。

15年程前にツアーパンフレットの撮影でお目にかかったのが初めてのことでした。その後、三年に渡る全国野外ツアーに同行撮影させていただくことに。「きみはなんで写真を撮るの?」ある時、こちらをまっすぐ見ながら尋ねる宮沢さんを前に、答えにつまったことを今でも鮮やかに覚えています。宮沢さんはきっと、なぜ自分が歌うのか、何度もご自身に問い続けて来たのだろうと思いました。若くて勢いだけで進んできたわたしは、強く問うたことがなかった。自分にとって写真とは何か、なぜ自分は写真を撮るのか、そういった問いを自分自身に逃げずに真剣に向けるようになったのは、それからです。もっと違う表現方法はないのか、もっとよくできないか、写真にできることは何か、わたしにできることは何か。そんなことをTHE BOOMの背中を見ながらいつもずっと考えていました。今も、そうです。

THE BOOMを通して出会った素晴らしい人々もわたしの大きな財産です。熱い思いを持ったひとびとの周りには、同じ周波数の人が自然と集まる。幸福な出会いがたくさんありました。THE BOOMから受け取ったことを数え始めると、一晩中かかってしまうかもしれない。




先日撮影させていただいた25周年のアーティスト写真は、これまでのそういった多くの記憶を胸に、でも、あたらしい気持ちで向かいました。「百景」の時と同じスタジオの同じ壁で撮ることに。あれから10年も経ったのかと言い合いました。光の速さで時は進む。 集まるのはひさしぶりのはずなのに、メンバーが慣れた様子で自然と四人並ぶ姿に、家族でも友人でもない特別な関係を感じました。そして、改めて25年間という月日の厚みを思いました。

また今回、HISTORY ALBUMのジャケット撮影をさせていただいたことを、とても光栄に思います。北海道に移り住んだ榊原さんとは10年前に「百景」の撮影で出会ってからのよい仲間です。撮影の作業は、それぞれに流れた10年を確認する作業でもありました。プロとして仕事する中に、個人的な思いが静かにあふれていた時間。榊原さんが丁寧に額装した25枚の写真はわたし個人の記憶をも反射し、憧れや熱、焦りそして希望、さまざまな記憶をひきずりだしました。野外ツアーの最終日、本番の直前にどうしても彼らの精悍な顔つきを残しておきたくて、無理を言って撮らせていただいた写真もあります。(プレミアム盤のメンバーのポートレイトです。)そしてきっと多くのファンの方々もそうであるように、THE BOOMの曲が、これまでの日々にそっと、寄り添ってきてくれたことを改めて、強く思いました。泣いた日、誇らしかった日、喜びの日、遠く旅に出た日にも。




アーティストの先輩として、真剣に表現すること、慣れないこと、挑戦すること、広げること、たくさんのことを教えてくれたTHE BOOMに感謝の言葉をいくら連ねても、いまのこの思いに届きません。彼らとの経験はたくさんのすばらしい歌とともにわたしの背骨を支え続けてくれると感じています。そして、これからもずっと、ファンです。
THE BOOMありがとう!!!




『HISTORY ALBUM』ジャケットデザイン 榊原直樹



学生の頃、夜の河原で友人が「星のラブレター」をアコースティックギターで弾き、仲間たちと歌った。それから10数年が経ち、僕はデザイナーとして『百景』のCDジャケットを制作しました。また10年が経ち、僕は東京から北海道に移住しましたが、25周年の『HISTORY ALBUM』をデザインすることになりました。とても光栄で、身の引き締まる思いでした。
ひと目でヒストリーアルバムとわかること、何十年経っても色褪せないジャケットにしたい。熱い想いや緊張感はひとまず置いて、シンプルにビジュアルのアイデアを削ぎ落としていきました。

25枚の写真を飾る。丁寧に額装して、壁にピンをしっかりと差し、まっすぐに飾る。
札幌の自分の事務所の白壁に、毎日少しづつ増やしていきました。 ひとつひとつ飾りながら、デザイナーとして初心に立ち返るような想いがありました(最終的にはバランスを考えて、写真以外のピースも加えました)。人物写真を額装すると、被写体のまなざしや、体温のようなものが溢れ出して、時にノスタルジックで悲しいものになります。今回は、思いが溢れ過ぎないように、整然とクールに、ミュージアムのように仕上げました。
額縁は、古いアメリカのものが大半です。札幌中のアンティークショップをまわり、東京にも行って探しました。“B”の文字は、実際にアメリカで使われていた看板の一部です。BeerとかBurgerとかでしょうか。


最も大変だった作業は、額装する写真のセレクトです。25年間の膨大なアーカイブの中から、年代などのバランスを考えながら絞り込む。80年代の写真を見ていると、メンバーの服装や髪型(みんなとても痩せてる!)につい笑ってしまい、手がとまってしまう。終わりが見えない作業でしたが、THE BOOM の25年を少しでも僕の体に染み渡らせるための、大切な作業だったと思います。

最後に、北海道という離れた場所でも、ジャケットデザインを任せてくれたTHE BOOM のメンバー、スタッフ、撮影の為に札幌まで来てくれた、カメラマンのマサコさん、A & Rの永田さん、マネージャーの井手上さんに感謝します。
THE BOOM ありがとう。25周年おめでとう!







アレンジャー オーノカズナリ

 


--早速ではありますが、オーノさんとTHE BOOMの音楽との出会いを教えてください。

オーノ 僕がTHE BOOMと出会ったのは高校1年生の時に、後藤君という友達がTHE BOOMのカセットテープをくれたんです。今考えると、最初のベスト盤『THE BOOM』(1992)だったと思います。僕、音楽に触れるのがすごく遅くて、自分で初めてラジカセを買ったのも中学2年か、3年生くらいで、当時のヒット曲を聴くくらいでした。能動的な接触はなく、音楽を音楽として全く聴いてなかったです。「星のラブレター」とかもラジオでよくかかっていたので、曲自体は知っていたんですが、その時のカセットテープがTHE BOOMとの出会いでしたね。
音楽をやる前はずっとスポーツをやっていたんですけど、僕はガリガリで背も低くて、全然レギュラーにもなれなくて、すごくコンプレックスの塊で思春期を過ごしていて、なんかその時の自分の気持ちに「気球に乗って」の詞の世界がすごくマッチしたのを覚えています。そこから一気に、THE BOOMを教えてくれた友達から色々な曲を借りて、「これがレゲエっていうんだよ」、「これがスカっていうんだよ」っていうのを教えてもらったりしました。
あと、僕は歌詞も書くので特になんですけど、THE BOOMの曲の中にも色々なパターンがあると思うんですが、例えば、散文詩的に情景を重ねていって、でも最後の結論は出さないままま終わる。でもその一連の曲を聴き終わった後に残る感情というか、音楽が残る手法は、すごく影響を受けていますね。完全に答えを出しきらないというか。すごく感動しました。
今回のヒストリー・アルバムでいうと、例えば「なし」とかは、その時のコンプレックス感みたいなものを吐き出しているんですが、でもそれがいいとも悪いとも言っていない。俺が正しいとも言っていない。そういうところですごく寄り添ってもらっている気持ちになったんですよね。あーこういう感覚を持っていてもいいんだなという。「自分は、もしかしてめっちゃヤバイ奴なんちゃうんか!?」って思うような、思春期のある場面があったとしても、寄り添ってくれた感じがしました(笑)。
ただ、MIYAさんに直接歌詞の意味を聞いたことは一回もないです。どういう時に作ったのかみたいな話は、MIYAさんからしてくださることも多くて、聞いたことはあるんですけど。この歌詞は本当はどういう意味なんですか?っていうのは、もういらないというか…。聞かないですね。「星のラブレター」も、本当のストーリーはわからない、でも聴いた後に確かな感情が残る。
僕はMIYAさんの歌詞から闇を感じることがあります。それは勝手に僕の心を投影しているだけなのかもしれませんが…。根底にすっごい真っ暗な世界を感じるというか、絶望や怒りを感じるというか。MIYAさんが言葉を重ねて歌うことによって、闇が光に変わるっていうんですかね。「闇」があるから、「光」が光として捉えられているっていう。ふと、ベースメントにある絶望感みたいなものに言葉の使い方で気づいてしまった瞬間には怖くなりますけど、そういうところをベースで歌っていらっしゃる、反骨心みたいなのが根底にすごくあるんじゃないかなと思います。まぁ、それはすなわち、聴いている僕自身がそうなのかもしれないですけど(笑)。THE BOOMの曲は、そういう写し鏡というか、如何様にでもとれるのが僕の好きなところです。





--THE BOOMのサウンドにオーノさんが参加されることになったキッカケを教えてください。

オーノ THE BOOMのサポート・キーボードで参加していた斎藤哲也さんに、僕がプロデュースしているバンドのキーボードをやっていただいた関係で、斉藤さんとは少し前から知り合いだったんです。その時、THE BOOMが20周年記念のアルバム『四重奏』を作っている時で、斎藤さんに声をかけてもらったのが一番最初ですね。たぶん大変な作業になると思うからちょっと手伝ってほしいみたいな。最初はそういう形だったんですが、YAMAさんと斎藤さんの中では、マニピュレーション的なことをすでに考えてはいたみたいで、一番最初のレコーディングスタジオには、なんでもできるように色々持ってきてくれと、呼ばれて行ったんですよね。
スタジオでは最初にYAMAさんを紹介していただいたのかな。で、みなさんご順番に紹介していただきました。ちょうど『四重奏』の「20-twenty-」をレコーディングしていた時でしたね。「よろしくお願いします」、「まぁまぁ入って聴いてみて」みたいな話をして…。その後、ほぼ出来上がっている「20 -twenty-」のミックスを渡されて、「明日までに何か入れてきて」って言われて、「僕はもう完成していると思いますので…」と言いながら、2トラック、3トラックだけ入れてお渡したのが一番最初でした。
一般的にライブマニピュレーターというのは、ライブの演奏している人たち以外のデータ(CDの録音のデータ)を流すというが仕事だったりするんですけども、20周年のツアーリハーサルでは、原曲ももちろん踏まえた上で、この20周年のライブにどういう音が鳴っていたらいいのかっていう音を改めてMIYAさんとも相談しつつ、もう一度新たに作るっていう作業をしたんですよね。そういった意味では本当に大変でしたが、THE BOOMの音楽に自分が触れたというか、一番最初にがっつり関わったという印象ですね。
例えば「berangkat-ブランカ-」なんかは、全て新たに作り直しました。今回のヒストリー・アルバムでの新録の作業と、実は割と似ていたんですよ。今のこの20周年のライブでTHE BOOMのやるべき「berangkat-ブランカ-」は、どんな「berangkat-ブランカ-」だろうとか。やるべき「真夏の奇蹟」は、どんな「真夏の奇蹟」だろうということを考えて、一から作っていきましたね。



--昨年「島唄(2013ver.)」のレコーディングもありましたが、こんなにもご自身が参加されるっていうのは想像されていましたか?

オーノ もう本当に目ん玉飛び出ました!リハーサルスタジオで、ちょっと外の空気を吸いにいったりしている時に、MIYAさんから「実は来年こう考えていて、「島唄」を出そうと思っているんだけど、オーノ君どう思う?」って。「20年経って、“沖縄出身じゃない人が歌う沖縄の歌”というところから、“沖縄のための沖縄の歌”に…。いつか、あたりまえに道に咲いている花のような存在になって…」そういう部分で、何かできないかなって。オーダーというか、話し合いは、ほぼそれくらいだったでしょうか。
新たに追加になった「島唄」のブリッジの部分は、レコーディング当初からアイディアにありました。というのも、震災直後の沖縄国際映画祭のステージで、MIYAさん自身も歌うことが果たして正しいだろうかと悩まれている時で、なかなかの精神状態の中で「島唄」を歌ったのですが、ライブ中に「長くして」って合図があって、MIYAさんがその部分にアドリブを入れたんですよ。その時に感じたものがすごく大きくて、その時の感情というか、奇跡みたいなものが表現できないかなと思いました。
コードをいじるわけでもなくて、できるだけ原曲に忠実に。ただサウンドのエッセンスだとか、リズムの細かい部分っていうのは現代風にちょっとずつ微修正して、でも聴く人の印象は全然変わらないようにすることを目指しました。それで、レコーディングの歌入れの時に、「あの映画祭の時に僕自身すごく感動したので、20年経ってもしMIYAさんが何か湧いてくるものがあったら、入れてください」とお願いしました。どんなメロディーが入るかも全く想定しない、ただ演奏をそこに入れて、もし何もなかったらそこはもうバサッとカットして、そのままやりますと。ただ、白紙のノートを1枚そこにはさんだみたいな感じにしたんです。
歌入れの時は、僕とYAMAさんでスタジオに居たんですけど、「できたよ!」って言われて、スタジオに入って、ずーっと頭から流れで聴いたら「あっ! 入ってる!! 歌詞も付いてる! 全然思っていた100倍以上のものが返ってきた!」って、僕とYAMAさんは普通に涙が出ましたね。人の歌入れで涙が出たのは初めてでした。ただ、やっぱりそれは、沖縄国際映画祭でのステージがあったからなんですよね。その時みた光景、宮沢さんの背中っていうのが凄くて。
時を同じくして「シンカヌチャー」のアレンジをやるんですけど、「シンカヌチャー」はTHE BOOMバージョンということで、これは割と思い切った提案をしました。というのも、バンドとしての違いをはっきりさせたいなという想いがありましたので。






--今回のヒストリー・アルバムでオーノさんがアレンジ参加された8曲は、初期のTHE BOOMの代表曲ともいえる曲ばっかりだったので、プレッシャーは相当あったんじゃないですか?

オーノ そうですね。MIYAさんから「こういう企画をやろうと思う。25周年記念のアルバムだから、初期の曲からも入ると思う。もう一回録り直すと思うから」と言われたのが、去年の9月頃でした。なので、色々と考える時間はあったんですよね。
基本的にはTHE BOOMのオリジナルのものを新たに録るからといって、何か奇をてらったことをするのではなくて、ライブでやってきた中で、新たに追加された温度とか、匂いはどういうものなんだろうっていうところですね。例えば一つのギターのフレーズでもいいですし、スネアの一発でもいいですが、この曲を聴いたときに、何でこの曲に対して感動したのかなとか、どの世界観で、どの音で、どの風景でこの曲を良いと思ったんだろうな…僕は、っていうところで考えました。人はと言いながら、まずは自分がでしたね。まさに友達の後藤君がくれたカセットテープの曲ばかりだったので、あの時僕はどんな風景を思い描いていたんだろうかな、どんな温度だったかな、どんな色だったかなって。
例えば「釣りに行こう」の最後のサビだと、最後にもう一回サビがくるっていうのは、矢野さんとのヴァージョンしかないですよね。オリジナルの「釣りに行こう」に忠実なアレンジにしているんですけども、オリジナルのTHE BOOMの演奏のまま徐々に矢野さんヴァージョン的なフレーズが入ってきたり、TAKASHIさんのライブで生まれたフレーズが入ってきたりする。今回の録音でそういうTHE BOOMの出会いであったり歴史であったりが感じられて…。最終的に最後のサビでは、今まで回想シーンだったのが、その物語の世界の中にバーっと入り込んで、一気に「君」がもうそこにいるような風景になったというか…。もしこの映画に続きがあったらみたいなことを飲み屋で言うような感じで広がっていったのは凄く楽しかったですね。
「釣りに行こう」の最後のサビにいくところとか、「中央線」でギターソロにいくところ、その他の曲の中でもライブの時にグっとくる瞬間を、できるだけCDにもパッケージングしたいと考えました。メンバーのみなさんと相談しながら最近のCDの作り方とは違ったやり方でグルーブ感というか、タイム感を演出しているので、かなり変則的な手法を使っています。ライブを観ていて栃木さんやTAKASHIさんが入ってくる時の、全身の鳥肌がたつような瞬間をCDでも感じたくて。ライブで今まで見てきた風景だったり、ライブDVDをもう一度見倒して、どこで鳥肌がでるかを感じて、その鳥肌ポイントをできるだけ表現できるように、メンバーのみなさんと落とし込んでいけたのも楽しかったです。ライブでやってきた追加された風景っていうのはどういうところなんだろうっていうのは、そういう部分だったりもします。



--デビュー25周年記念イベント”MOOᗺMENT CLUB ~I'm a BOOMER~” では、渋谷公会堂に集まったお客さんと「風になりたい」のコーラス収録を行ないました。いかがでしたか?


オーノ レコーディングの指揮をやったのは人生初だったので、正直、直前まではどうなることかと思っていました。でもみなさんすっごい楽しそうに笑顔で歌ってくださっていて良かったなという反面、必死に耳元のイヤーモニターに集中していたので、あんまり覚えてなかったりもします(笑)。僕がイヤーモニターでカウントと演奏を聴きながら指揮をし、それに合わせてみなさんが歌うという手順をとったので、実はほとんど目を閉じて、音に集中していたんですよ。歌声につられてしまうと全部がずれてしまうので必死でした。でも、終わりや間奏でパっと目を開けたりすると、みんながめっちゃ楽しそうで、うわーみんな楽しんでくれてる。あっ、また始まる。集中…みたいな(笑)。すごく不思議な体験でしたね。前にはお客さん、後ろにはTHE BOOMのメンバーが、そしてふと横をみると栃木さんがすごい素敵な笑顔で、何だこの感じはって(笑)。すごく楽しかったです。
今回の「風になりたい」は、「島唄」同様、「風になりたい」が日本の代表的なサンバの曲になって、みんながずっと「風になりたい」を歌い継いでいけば、このTHE BOOMが始めたお祭りはたぶん終わることはないでしょう。っていう裏テーマがあるんです。次の「風になりたい」は何かなって考えたときに、「サンバは終わらない」っていう裏テーマで、終わらないためには、みんなに歌い継いでいって欲しいという想いでのスタートだったので、その中でも一番近いファンクラブの方にコーラスで参加していただいたっていうのは、すごくうれしかったですね。






--今回のレコーディングは、宮沢長期休養後、初めての歌入れでしたが、いかがでしたか?


オーノ びっくりしましたね!でも、やっぱり思った通りやなとも思いました。何故かというと、この5年やらせていただいて、MIYAさんはいつも僕の想定内で収まったことがないんです。僕は僕なりに、MIYAさんのアプローチみたいなのを想定しながら作業や提案をするんですが、それを軽く一足飛びみたいに超えてくるっていう(笑)。「この感じかな」っていう予想は常に余裕で超えてきてくださるので、今回もやっぱり予想を上まってきたなと思いました。休養開け、少し心配してた「星のラブレター」で、こういうアプローチにしてきたんだ! やっぱりすごいな! と感動して、もうその後は、歌の録音が上がってくるのが凄く楽しみでしたね。オリジナルのCDにはなくて、ライブの時にやっていた表現みたいなものも随所に散りばめられていて、たぶんここは元々こういう風に歌いたかったのかな〜?みたいなところとか。ここはオリジナルのままだなみたいなところが、見え隠れするのもすごく楽しかったですね。



--実際、出来上がりの感触としてはどうですか?


オーノ 僕のクリエイターとしてのやり方の中では、いつまでたっても完成はないんです。ただ、マスタリングが終わってしまった瞬間にもうこちら側のものではなくなるので、完全に完成されたものとして聴いてますね。自分が関わっていたとかは離れて、「なんかMIYAさんの声、当時とは違うけどこれはこれで生命力のある声になってるー」とか、一人のファンとして楽しんでいるところがあります、作品から商品になった瞬間から。ここはこうしたらどうなるだろうと、思うのはマスタリングまでです。込めた想いをこういう風に想ってくださいっていうことは操作できないので。ただ、そこに至るまではできるだけ、THE BOOMの込めた想いだったり、MIYAさんの込めた想い、僕の想いが、最大限聴いてる人に伝わるようにあがき続けました。そしてマスタリング終わった瞬間から今、「あぁ良いアルバム…」としみじみ聴いています(笑)。



--アルバム発売後はいよいよ全国ツアーがありますが、ツアーに掛ける想いや意気込みをぜひ聞かせてください。


オーノ 先日MIYAさんのレギュラーラジオに出演させていただいた際にも少し言ったんですが、僕が初めて20周年のライブに参加させていただいたときに、うちの母親が観にきて言った一言が「ステージにファンが一人まぎれとるなー」だったんです(笑)。
サポートとしては、THE BOOMの歴史をもっともいい形で表現できるようにがんばります! という風に耳触りのいいことをいいますが…(笑)、いちBOOMERとして、最後のお祭りを本当に一瞬たりとも逃すことなく全部吸収して、全部自分の中に閉じ込めたいなっていう意気込みがあります。メンバーのみなさんの顔とMIYAさんの背中、お客さん達の顔、全部を焼き付けたいなと思っています!






Photographs by 中川正子